仏壇について

仏壇が今のように一般家庭に浸透してきたのは江戸時代元禄期(一六八八一一七〇四)であると言われます。それまで仏壇は 村落共有のものであり、人々は月に何日か寺院に参詣するのが習わしでした。ご本尊は葬儀の際に各家へ貸し出されていた ようです。幕府の政策により本百姓の家々が成立するようになる一七世紀末には、家ごとに菩提寺を定める寺請制度が設けられ、各戸固有の仏壇が設置されるようになりました。 農家では座敷に仏壇をまつり、朝夕に礼拝し、先祖の命日には僧侶を招き供養する習わしがありました。また、この頃に は、尾張・三河・彦根などで工芸的な仏壇の生産が始まりました。
小堀を創業したを倒した義讃の父、彦根初代釋教誓(一七四三年没)が当時の小堀村(現長浜市小堀町)から彦根へ移り住 んだことが小堀の今に伝わっております。 彦根初代以前の先祖のことは、当時の小堀家の手次寺が火災で全てを消失してお りうかがい知ることができません。 小堀で仏壇づくりを始めたのは、彦根二代にあたる義(六〇〇年没)であることから、 教学もあるいは仏壇職人であったのかもしれません。
時代の日本は農民の年貢を基盤とし、農家は厳しく統制されていました。宝永の大地震や富士山の噴火、西日本 の大飢饉と災害続きで、農家であっても主食に米を食べることはむずかしかったようです。
そのような時世にあって、小堀村を領する彦根藩は、関ヶ原の功績により徳川家康からの信頼が篤く、江戸の頃には石田 三成の旧領地を与えられ、西国大名の目付役として三十五万石を得る大大名でした。広い領地は良質な近江米がとれる 農地の割合が高く、彦根城の城で近隣より集められた大工や左官職人たちの中にはそのまま定住する人々も多くいたよ うです。落では多くの武士を抱え、彼らが装備する武具を作る職人も多く住んでいました。戦のない時代が続くと、鎧や兜 を作る金工、革、塗師など武具の職人たちや草前などの家具職人たちの中には、仏壇職人に転向するものも多かったよう です。また彦根に支坊を かったことから、よく働き信心深い近江の人々の姿がうかがわれます。

京仏具 小堀『由来記』より

雲晴山樂圓寺

愛知県豊田市田振町(旧足助町)にある、🌲山あいのお寺です。宗派は真宗大谷派(東本願寺)です。1503年本願寺第9代実如上人にご本尊をいただいたのがお寺の始まりで、現在の本堂は、嘉永3年庚戌(1850)年3月8日再建。ロゴマークは市指定天然記念物のカヤの木の葉と実、真ん中にイチョウの葉をあしらったもの。名古屋造形大卒の門徒に何種類かデザインいただき、2019年秋彼岸に門徒による投票で決めました。

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