法話メモ
〇仏さまのすくいは「抜苦与楽」。私たちをすくおうとしている。
〇浄土真宗のご本尊は阿弥陀如来。本山も、別院も、寺院教会も。
〇仏さまはどれだけいらっしゃるのか?⇒ガンジス川の砂の数ほど
〇仏さまは苦しみの見立てが違う。
〇仏さまになる前はみんな菩薩。ボディーサットバ=真実を求める人。真実を求める人とは、悩み苦しみから抜け出るためにはどうした抜け出られるか求める人。菩薩は苦しんでいる私から生まれる。苦しみ悩んでいる人がいてはじめて菩薩は生まれる。それを助けようとする願いが生まれる。
〇観音菩薩は音を観る。衆生の苦しみを聞く。それを聞いたときすくおうとする願いを起こす。
〇弥勒菩薩は 蓮華座を半分組んでいる。弥勒半跏思惟像。私の苦しみはどこにあるのか?それを考えている姿。
〇菩薩は苦しみの元が分かったら誓願を立てる。私はこの約束が果たされなければ、私は仏になりませんと誓う。
〇菩薩は私一人がすくわれればいいという存在ではない。その人をすくうことが私のすくい。迷っている人を目覚めさせることが私が目覚めること。
〇薬師如来は平安時代に信仰を集めた。疫病が流行ったからだ。薬師如来は私の苦しみの根っこは病の苦しみだと考えた。
〇どんなに生き生きとしたって、信頼されてたって、活躍したって病気の不安は常にある。人生の根底の苦しみは病気。
〇阿弥陀如来は南無阿弥陀仏ですくうと言う。浄土真宗は難信易行。
〇阿弥陀如来になる前は法蔵菩薩だった。法蔵菩薩は王様だったという。王様とは私の願いが極まった姿。何でもかなえられる思いどおりになる。何でも思い通りになったらすくわれるのか?そうはならない。幸せになりたい=不満。
〇子どもが生まれたら幸せに思う。しかし、不安が押し寄せる。病気、成長、学校。
〇お釈迦さまは不満が満たされたら不安という。失うのが怖くなる。
〇人間はなぜ死ぬのか?生まれたから死ぬ。死ぬということは生まれるということ。一人で生まれ一人で死んでいく。
〇生き甲斐がないと生きていけない。どっかで生きる価値を探している。
〇生きている間にいろんなものを自分にくっつけて生きている。はがれると不安だからまたくっつける。最後ぜんぶくっついてるのが全部はがれる。
〇法蔵菩薩は世自在王仏に会いに行く。私のホントの願いを知りたいと聞く。世自在王仏はあんたの願いはあんたが知っているはずだという。私のホントの願いを知りたいと言う。世自在王仏はm、ガンジス川の砂の数ほどある浄土の因をすべて見せた。
〇倶会一処はいろんな人と会っていける世界。分別を超える世界。でも、私の中では思いや願いの延長線上の浄土。好きな人しかいない。これはほんとに浄土か?親鸞はこれを宮殿という。
〇法蔵菩薩が建てた願いは48願。仏教では迷い・一人で生きて・死んでいく人生を無明という。法蔵菩薩はこれをすくわなければいけないと思った。
人から必要とされる私を作っていくこと。人から呼ばれ、人から必要とされ、人を必要とし生きていく。頼りにされることですくわれる。
〇無明に名前を付けた。南無阿弥陀仏と名付けた。あなたが南無阿弥陀仏に気づかなかったら、私も阿弥陀仏になりません。
〇親鸞聖人は『唯信鈔文意』にこう書いている。阿弥陀さんが私をすくうという願いが私に届いてはじめて、そのとき法蔵菩薩は阿弥陀さんになるんだと書いている。
〇法蔵菩薩は私が必要である。私が南無阿弥陀仏と言わなければ、法蔵菩薩は阿弥陀さんになれない。
〇法蔵菩薩の願いは私の願い。「私の名前を呼んでくれ」といっている。
〇名(因位)号(果位)
〇人間は役に立つ人間になりたいと思う。が、実際は役に立たなくなっていく。役に立つ時もあるというのが現実。
〇物事を分けて考えられる存在が人間。分け隔てることから離れられない。
〇仏教を聞いたら安心できるのではない。「生老病死」という現実から目を背けるなという教えである。
【二河白道のたとえ】善導大師
〇彼岸・・・本当の世界
〇此岸・・・本当の世界ではない
旅人がいる(私)。人生は旅のよう。人生の旅は不思議。
旅する時は普通計画を立てる。宿ををとる新幹線をとる。目的がだいたいあるからあそこに行く、ここでこの用事を済ませると計画を立んて準備をする。そして行く。
ゆく当てのない旅もあるけれど。
しかし、人生という旅にはこれがない。なんか知らない間に始めている。不思議だ。はじめようという思いがないままに始まり、どこに向かっていけばいいのか分からない。何を果たしていいのかさえも分からない。
人生の目的は家族を養うこと、人を傷付けることなく生きていくことが大事だという方もいる。家族がない方には人生の意味がないのか、人を傷つけることなく生きることなんてできっこない。例え家族があっても子供が家を巣立って行ったりする。
一日一日を大切にしていく。老後を充実させるといっても、病気になったり老いて行ったりしてできなくなっていく。
学生だったらいい学校に行って、いい大学に入ってって言うけど、勉強しても入れるかはわからないし、東大が目標でもそれがかなったら目標なくなるかって言ったらそうでもないし。
私たちはなんでここにいるのか分からない。いきなりこの世界に放り込まれて。そういうのに耐えられないから、そのときそのときで自分の心に響かせてくれるような自分の生きる目的を探して生きていく。とっかえひっかえつかんでは離し、つかんでは離して生きている。最後の最後まで何かわからないまま人生を終えていく。これがお釈迦さまが発見した私の姿です。
芥川龍之介が「人生は狂人の主催によるオリンピックである」と言っている。種々の言葉より
オリンピックには必ず出たい人がいいる。その出たい人が努力してオリンピックに出る。そして競争を一生懸命する。私たちの人生もオリンピックに似ているところがある。あの人に比べて私はどうか?ちょっと上か下か?自分がどの辺の位置にいるか比べて比べて生きている。まわりが気になって仕方ない。ちょっとでも上に行けるように、上でいられるようにがんばっていきる。でも、オリンピックと違うところがある。何が違うかというとなぜここに立っているか分からないということ。自分の意志とは関係なく走り方も泳ぎ方も知らず放り込まれている。
がんばって勉強しなさい、がんばって運動しなさい、がんばって友達作りなさい、がんばって病気を治しなさい。ずーっとがんばってって言われ続ける。がんばってゆっくりしてねとか言われる。ずっ走れと言われるが、どこに向かっているかさっぱりわからない。どこに向かっていくかというと死に向かっていっているわけですけど。
ふつうならゴールに向かって走る。ある人はゴールありますよ。死ぬことがゴールじゃないんですか?と言った。死ぬことはゴールじゃないですよ。だってガンだと思って調べてガンじゃなかったらあーよかったとなるでしょ。死ぬのがゴールなら、やったーガンだー死ねるとなるはず。ならないでしょ。
なんだかわからないまま死んでいく。だから本当の世界ではない。
お釈迦さまはあなたの生きざまは生老病死という。この道理に指一本触れられない。生まれたくなくても生まれ、いつまでも同じ年でなんていられない。一日生きれば一日死に近づく。どんだけ健康に気を付けて野菜を食べて健康ドック受けても病になるときはなる。そして死ぬ。なんで?といってもこうなる。
旅人は西に向かっていく。西に向かうとは?鳥が巣に帰る姿を表す。帰るべきところ。そういう意味。それと太陽は西に沈む。太陽は生きとし生けるものを支えるもので、太陽がなければ生きられない。すべての命を支えるものが最後に沈んでいくところ。
帰っていくところというのは本当の世界という意味がある。旅行をに行っていくらいいところに泊まって、おいしいもの食べてここにいつまでもいたいと言っても、翌日11時には出てけって言われる。
人生と似ている。でもホテルと人生の違いは出ていく時間が決まっているところ。私はいつここをでていっていいかも分からないままで、ここしか居場所がないように思っていきている。だから、なるべくいいようにいいように、生き甲斐があって居心地がよいように飾り立てて生きている。しかし、必ず出てってくださいといつか終わりがあることも知っている。となると、私が帰るところはいったいどういうところなんだとなる。これが人が目覚めるということですね。自分のいる世界はほんとの世界じゃないって気づく。
何も考えてないような人でもこれでいいんだろうかという思いがある。生きていたら空しさというものがなくならない。何をしても美味しいもの食べても恋人と出会っても何かに夢中のときは空しくない。それがふと消えた時空しい気持ちにならないか。私たちは本能的に知っている。私の人生に何の価値があるのか?考えても考えても意味ないんじゃないかと思う。心の中では一日一日がんばればいい、そう思うんだけどそれだけでは解決できない思いが心の底でどんよりとある。それがやることなくなった時に出てくる。このままでいいんだろうかと。
夕やけ見たら不安な気持ちにならない?私の命が一日終わってしまうと思って。こうやって一日一日が過ぎ、老いていってできることが少なくなっていって死んでいく。
本当に帰るところを探すということが西に進むということ。
私がここにいる理由はなんですいか?どっかにある。すべての宗教の根源です。まっくらなものがある。会社勤めしていたのを辞めて、また遊びに来てくださいねって言われて行ったところで私の席はもうない。他のだれかが座っている。もうそこに自分の居場所はない。自分のクラスはいいけど他のクラスはいていいんだろうかと思ったことがある。でも、自分のクラスもクラス替えがあればまた居場所がなくなる。ずっと居場所を探しながら細い絆を頼りながら生きている。それが切れる時が死ぬとき。
安心安心をもとめる信じる、それを信じようとして今を誤魔化して生きている。マルクスは宗教をアヘンだといった。でも仏教はそうではない。酔いからさめる夢から覚めるのが仏教です。でも夢の中へ入っていくダイジョブだって。なんとかんとか自分を取り繕って生きている。
〇彼岸・・・本当の世界
〇此岸・・・
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