東日本大震災から10年 2021年3月11日
今日は東日本大震災から10年です。
毎年、あれから何年とこの日になると思ってきましたが、あらためて振り返ってみました。
はじめは、東北地方太平洋沖地震という名前でした。
あの時、2011年3月11日14時46分。自分は東本願寺の御影堂を歩いていました。
御影堂は少し軋むような音がして、外洋の船が海のうねりで揺られるような揺れを感じました。あくまで体感です。揺れの大きさは大きくないのにうねるように揺れるという初めての経験でした。
大きな揺れは阪神淡路大震災を1995年1月17日に経験したことはありました。あの時は、もう死んだと思いましたが。
そのあと、テレビで見た地震と大津波の光景は衝撃でした。これは現実なのか?いとも簡単に車や家が流されている。ビルに車が刺さっている。不謹慎ですが、洗濯機がぐるぐると回る中に家や建物があるように感じました。
ちょうど2011年は宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要の年でした。3月21日から28日は御遠忌第1期法要でした。それが、被災者支援の集いに変わりました。
複雑な思いでした。震災にあわれた方、行方不明の方々がものすごい数いらっしゃる中でいま法要を行うのか?
延期でもいいのではないか?
いま自分たちができることとしてこの集いをするんだ!という思い。
ずっと準備してきたことができなくなる残念な思い。
もやもやしたものがありました。
震災からしばらくして、当時参務江尻静哉さんと一緒に宮城県仙台市にある東北別院に行きました。伊丹空港から山形空港まで行き、東北別院に入りました。
何日だったか、何日間いたのか記憶は定かではありません。東北新幹線が止まっていたのは記憶しています。
真宗大谷派は震災後、東北別院を拠点に災害救援活動を行っていました。すでに現地に入っている職員、江尻参務とともに避難所・寺院(岩手県、宮城県、福島県)に救援物資を運びました。東京教区からも職員がいました。
海辺で見た光景は忘れません。もう、ご遺体はなかったと思います。根こそぎ集落が海に引きずり込まれている光景。ありえない位置に漁船が打ち上げられている光景。家族で撮った思い出の写真などが散らばっている光景。
窮屈な避難所、ガソリンスタンドの長蛇の列、コンビニに寄っても商品がほとんどないこと、東北の春はすごく冷え込むこと。食べてはないですが現地の方がホッキガイの話をされていたこと、活動した後すごく身体が冷えていたこと。
訪れた場所ごと、車を降りるたびに胸を締め付けられる思いがしたこと。
食事はごはんかおにぎりかどっちかあったと思います。カップみそ汁があったか?
缶詰は確実にありました。缶詰がすごく美味しかったです。食べることが有難いと感じました。
お風呂は入れなかったです。帰宅したときに入ったお風呂がすごくすごく気持よかった、温かくて涙が出そうになりました。
いかに恵まれた生活を日々送っているか気づかされました。
「震災に荘厳された御遠忌法要」という言葉を当時、儀式指導研究所所長 近松譽一さんがおっしゃられておりました。
いろいろ思うことがある中でおっしゃられた言葉だったと思います。2011年11月は宗祖親鸞聖人七百五十回御正当報恩講だったのですが、その年の夏に近松譽一さんはお亡くなりになりました。まだまだお聞きしたいことがある中でのお別れでした。
2013年4月教如上人四百回忌法要がありました。その中で、こどものつどいが開催されました。震災を忘れないために「遺体 明日への10日間」という映画をプロジェクトスタッフで観にいきました。ずっと、みんなでぼろぼろ泣いてました。「やるべし」「あの方は死体ではない。ご遺体ですよ。」のフレーズが心に残りました。
2015年しんらん交流館ではたらかせていただくようになって、講演会やギャラリー展を考える中では常に頭のどこかに震災のことがありました。
東日本大震災では、ボランティアとして被災地に入り、生後10日の赤ちゃんから90歳を越える高齢者まで約300人を5ヵ月以上かけて見送ったという復元納棺師 笹原留似子さんという方、ダキシメルオモイで家族を描く作家 小林憲明さんという方にも出会いました。
死が身近にあること。
恵まれた生活をしていること。
思いを越えた世界が突然現れること
生きていると感じたこと。
まだまだ振り返りが足りませんが、今はこんなことが浮かんできました。
なんか文章にならないや
https://zonmyoji.jp/archives/子どものつどい法話/
復元納棺師 笹原留似子さん
作家 小林憲明さん
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