【2021年7月お寺の掲示板】
人間は死を抱いて生まれ
死をかかえて成長する
大谷専修学院学院長 信國 淳
死はいつでもどこでもあるのに全く意識していない。意識するときは、お参り、法事、通夜葬儀、危ない目にあったとき、今日のような巴川の増水を覗き込んだとき。
意識しなくても、産まれたときから必ず死ぬということが確定している。そして、身体が大きくなったり、いろんな経験をしたり、知恵や知識がついていっても死がすぐそばにある。
7月8月は盂蘭盆会が勤まる。昨年、満中陰がお盆以降の方から今年満中陰がお盆前までの方を対象に初盆参りを行っている。先祖を通して死が少し身近に感じられる季節。
信國淳元大谷専修学院長とは残念ながらお会いしていない。しかしながら、このようなエピソードがあるそうです。
当時、大谷専修学院は京都市五条高倉の、高倉会館のなかのオンボロ校舎兼寄宿舎が学院でした。
先生の方針で、院長就任以来、学院生は全員、その寄宿舎で寝食を共にするほという学舎でした。先生のお住まいは校門脇の建物で、夜10時の閉門、朝5時の開門は先生自らなさっていました。ですから、私も帰るなら10時前に校門を出ないと泊まりになってしまいます。
あるとき、この10時が過ぎて先生が門を閉められた直後、外出していた学院生が帰ってきて、大声で先生に門を開けてくれるように頼んだのですが、先生は決められた時間が過ぎたのだから開けてやることはできないと告げられました。多分閉門から十分も過ぎていなかったろうと思います。私も出られなかったので、やむなく兄のところに泊まることにして、「何とまあ、非情な先生だ、歳を取るとみんな頑固でこうなるんだろうか。」と兄に話しますと、兄嫁は「それは大変、先生は今日も廊下泊まりだわ。風邪を引かないように毛布とアンカがいる」といって準備を始めました。
生徒を追い返した先生は、門脇の部屋の廊下に座布団を敷かれ、一晩中お待ちになっておられたのです。翌朝、門を開けられた先生は、朝のお勤めに間に合うように帰ってきた学生達になにごともなかったように、「おはよう」と声を掛けられていました。
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東本願寺ラジオの時間佐々木 祐玄(新潟県 光善寺)第4話 可能性を見つける [2009.2.]音声を聞く
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