満蒙開拓平和記念館 2021年5月29日

長野県阿智村は、環境省の実施する全国星空継続観察で「星の観察に適していた場所」の第一位(平成18年)に認定さ れた星空をテーマに、富士見台高原ロープウェイヘブンスそのはらで行われる「天空の楽園 ナイトツアー」、「天空の楽園 雲海Harbor」、「天空の楽園 WinterNightTour」(今年から天空の楽園 ナイトツアー 通年営業に変更)、「日本一の星空浪合パーク」など星空を見上げるイベント、場所づくりに取り組んでいる。

一方、先の第2次世界大戦で沢山の犠牲を生んだ満蒙開拓の史実を後世に残すべく、2013年「満蒙開拓平和記念館」が開館している。
素晴らしい星空も興味があるところであるが、仕事の中で「シベリア抑留の絵巻」の展示で学ばせていただいたので、お寺の仕事の空いた午後に満蒙開拓記念館へ訪問した。

館内撮影禁止のため、外観の写真しか掲載できないのが残念であるが、館内の写真では満蒙開拓団の暮らしの写真や建物模型が展示してあった。
日本と違うどこまでも広がる大平原、大きな太陽が地平線に沈むといった自然のこと。
満蒙開拓だから開拓を行った方々というイメージがあるが、実は実際に開拓した人は少なく、現地の人の開拓した土地を奪う存在であったなどの記載もありました。
27万が開拓に送られたとのことであったが、長野県は3万3000人と突出していた。愛知は2358人。長野県は耕地面積が狭いのと養蚕業の衰退が原因のようであった。

1945年 8月9日ソ連軍が満州に侵攻
ソ連参戦の情報もなく、大混乱に陥った開拓団。機銃掃射、戦車部隊、憎しみを抱いた現地の人の一部暴徒化。
避難民収容所に来ても、着る物、食べるものもままならず、氷点下の寒さ。
子どもを預ける、売る、自決する、襲われる。

展示の一角に当時の証言の文書があった。印象的なのは、もうダメだから死のうと2人で約束。お互いに石で殴り合った。
腕で殴りあった。血が流れ出してこれでそのうち死ぬだろうと横たわった。が、スコールで目が覚めた。周りは死屍の山。
そんな内容であった。仲間と死ぬために殴り合う。戦争がそうさせたのだ。今の時代に生きる者には想像もつかない。
しかしながら、そうした方々が日本の経済発展を支えてきたのだ。色々なことを胸にしまって。

さらに驚きをもったのが、命からがら帰ってこられた開拓団には実は帰る場所がなかったことだ。
満州に渡る際に家や土地を処分している。親戚を頼る方もいたようだが、彼らは満州乞食とも呼ばれて蔑まれ、緊急開拓事業と称して軍用地や国有林の開拓をした。ブラジルに行かれた方もいた。
国策で全てを失ったのだ。

思い返せば、小学生の頃、テレビで「中国残留日本人孤児」という言葉がたくさん飛び交っていた気がする。
戦争後に中国で生きてこられた方である。その数3000人。3000人が生きているのであれば、3000人を育てた方がいたということである。
あらためて、小学生時代に聞いた「中国残留日本人孤児」がつながった感じがした。

「歴史に学び生きることの大切さ」
「その状況に置かれれば人間はなんでもしてしまう存在であること」

そのことを改めて感じました。ご縁をいただきありがとうございました。

雲晴山樂圓寺

愛知県豊田市田振町(旧足助町)にある、🌲山あいのお寺です。宗派は真宗大谷派(東本願寺)です。1503年本願寺第9代実如上人にご本尊をいただいたのがお寺の始まりで、現在の本堂は、嘉永3年庚戌(1850)年3月8日再建。ロゴマークは市指定天然記念物のカヤの木の葉と実、真ん中にイチョウの葉をあしらったもの。名古屋造形大卒の門徒に何種類かデザインいただき、2019年秋彼岸に門徒による投票で決めました。

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