「教学」と「教化」『真宗』1958年8月
教化研究所が教学研究所に改称された意義と方針
教えを教えにするには、私自身が身を以って受けとることが何よりも大切であり、教えの深さが、わが身の迷いの深さを貫いて頂けて行く。
それが「学」ということであるに違いない。 学ぶというと 世間一般の常識からは頭で学ぶことに考えられがちであるがそうではない。
学ぶは身を以って学ぶ のである。
自己の迷いの、 苦悩をひっさげて教法に聞くのである。
教化という言葉には、熱心の余りであろうが教えるということが強く意識されて、学ぶという面がどうしても閑却されがちの傾きが響きあった。
教えを頂けば頂いた教えが教えの用きとして他に伝わる。 それを教化というのであろう。
頂いたものだけが、 深く教法を伝え得る。 こういう意味で教化は根本的には教学なのである。
教化研究所が教学研究所と改称されたのは、 決して一般大衆に通じない難しいことを研究しようというのではなくて、教化の根本にかえることであり、 それによって従来教化といわれて来たものを 生きたもの、 本当の教化たらしめるという願いからに他ならぬ。
言いかえれば教団全体を如来の教法の用かれる場所にしよう、こういう願いの実現なのである。
教化というと、人間が人間に教えるというイメージがあります。 数学というと難解な論理と知識が予想されます。
しかしそのいずれも、 親鸞聖人の立教開宗の願いとするものとは異なるのではないでしょう か。
教学は自らが 「一人の念仏者」 となることに主眼のある求道の学であり、 教化は他に 「一人の念仏者の誕生」 を願う報恩の歩みなのであります。
先に寺院の置かれた厳しい状況、、そして危機感ということを申し上げました。 このような中、 天親菩薩の言葉が私たちに何を願って生きているのかを問うています。
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