2020年6月のお寺の掲示板
「現実を受け入れたところに今がある 新型コロナウイルスを縁とする今がある」楠 信生
いろいろな展示企画をお仕事でさせていただいて、「日常の尊さ」、「当たり前だと思うことが実は当たり前ではない。様々なかかわりが積み重なってできている」という切り口が多かったように思う。
今回の新型コロナ感染症の件では、「毎年の風邪やインフルエンザとの違い」「たくさんの情報の中ホントを見つけられるか」「情報の更新スピードについていけるか」「同調圧力」「自粛警察」「危機管理」「自粛」「家にいよう」「孤独感」「web会議「届ける」「病気と経済」・・・
少し考えるだけでも、様々な課題があったかと思います。
以前お話を聞いた公益社団法人中越防災安全推進機構の稲垣 文彦さんは、「災害は、社会のひずみを顕在化させます。新潟県中越地震では、地方の過疎化・高齢化の課題が顕在化しました。人口減少社会の扉を開けた地震といえます。人口減少社会を迎えた我が国では、都会でも、高齢化の課題が顕在化しつつあります。」と語られておりますが、今回の新型コロナウイルスでも、社会の弱みの部分が露になったのだと思います。
教学研究所の楠信生所長は、「ウイルスとの共存」「ウイルスとの闘い」という言葉に違和感を持つそうです。なぜならば、共存といったときには罹患した人の苦しみには立てないし、敵といったとき平穏無事な日常を壊されたから言っているのであろうが、その日常を重要視している根拠は何かということだそうです。不確実な日常を拠りどこりにしていることです。
過去は過ぎ去ったものであり、未来はいまだ来ないものであるから、あるのは今だけである。
今を受け入れるのは非常に難しいことで、都合のいい今はそのまま受け入れられていくのが私です。
お釈迦様の当たり前のことは今は、諸行無常・諸法無我であり、ここを受け入れた時に今があります。
この今を受け入れられない「内なる敵がある」。「無明の病」であります。
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